| 「新宿の坂道紀行 袖摺坂(そですりざか)
袖摺坂とは、人とすれ違うとき袖がすれてしまうくらい狭い坂のことをいう。江戸時代から全国にこう呼ばれた坂があったが、現在東京にその名が残るのは2カ所だけ。千代田区一番町の芥坂頂上から南へ下る坂と、ここ大久保通りから横寺町と箪笥町の間を西北に上る石段の坂である。
この坂は昔から急坂だったようで、『新撰東京名所図絵』には「崖地に雁木を設け、折廻したる急峻の坂なり。しかも坂路は狭隘往来の人互ひに袖を摺り合す故に名づく」とある。13段で一休み、また13段と石段が26段続くこの坂は、いまでも急坂の部類にはいるだろう。現在の坂幅は約1・5メートル、すれ違うときは思わず横に一歩からだを引く。傘をさす雨の日は前方から誰かが来れば、坂の入り口で通り過ぎるのを待つ。さながら工事中の片側通行状態である。
大久保通りの坂下から見て、左側は美しい石垣で、親切に手すり付き。右側は人家の塀。『御府内備考』にある「袖摺坂は片側高台、片側垣根ニ而、両脇共至而、せまく往来人通違之節、袖摺合候…」の面影をいまも残す。いっときゴミが多くて閉口したときがあったが、最近はきれいに清掃されていて気持ちがいい。近隣住民のご努力だろうか……感謝。
袖摺坂は短い坂だが、風景が大きく違う場所を結ぶ異空間移動の坂である。坂下は車がひっきりなしに往来する大久保通りで、坂の入り口脇には洞窟風の公衆便所がある。昔は馬の水場だったと言われるとなるほどと思わずうなずくレトロなお便所は、いまはもっぱらタクシーの運転手さん御用達。前を通ると三度に一度はハザードランプを点滅させたタクシーが止まっている。スッキリ顔でタクシーに乗り込む運転手さんを横目に、26段の石段を少し息を切らして上がりきると、そこは一転閑静な住宅街である。そのまままっすぐ進めば朝日坂にぶつかる。尾崎紅葉の旧居跡も左折してすぐそこだ。
袖摺坂の坂上はとりわけ桜の頃が美しい。坂上左側にある大信寺の2本の桜の大木は見事で、坂上の路を薄紅の花吹雪が舞うとき、私は密かにここは知られざる桜の名所だと思う。
ところで、袖摺坂の石段に腰掛けて菓子パンなんぞ食べながら休憩している若者を見かけることがしばしばある。ときどきカップルも。なんでわざわざこんなところに好きこのんで……ちょっと邪魔だよ、なにしろ狭いんだから……いやいや、ここは袖摺坂、袖振り合うも多生の縁か、やっぱりどうぞごゆっくり。
(ふじみねこ)
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