| 「新宿の坂道紀行 三年坂
毘沙門様の前から本多横丁を抜け軽子坂も突っ切って、築土八幡神社の石段の始まる大久保通りまでの百メートル強の緩やかな坂である。古いモノに「巾一間四尺より二間二尺」とあるが、車のすれ違いは難しそうなところをみると、現在の道幅とおよその変化はないようだ。
坂上の半分を占める本多横丁は、両側に寿司屋、鰻や、居酒屋等が並び、脇に「芸者新道」「かくれんぼ横丁」の路地を抱えて、なにやら賑やかな物音が聞こえてきそうな商店の坂なのである。以前は「ロクハチ」ともなると、御座敷に出る姐さんの艶姿が多かったと、斎藤商店街会長はおっしゃる。ロクハチって?「六時から八時」のことですワ・・。その姐さん達が一刻をあらそってショウトカットしたのが「芸写新道」だ。そういえば敷き石もまろやかで吸殻の一つもない清潔さは、艶っぽい。
ところで、その名の由来、横丁の東側はかつての「本多対馬守」様のお屋敷である。それなのにあろうことか、一時、「すずらん通り」と改名した。斎藤会長は寿司屋を営んでいて、馴染みの客に再三、何故通りの名前を変えたのかと責められた。それで「本多」を復活させたのが昭和五十年ごろだという。
「昔の名前で出ています」ほうがすてきだと、わたしも思う。なんたって、本多様の目の前にはあの天下のご意見番の「大久保彦左衛門」も住んでいた頃からのもだから。
斎藤会長の想像は、あだ討ちで有名な堀部安兵衛が決闘の助っ人に走ったコースにおよぶ。叔母の知らせを受けた安兵衛が、八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町(新宿区)、馬場下、高田馬場を走る。飯田橋通過の際に、この三年坂、つまり本多横丁を走ったかもしれないでしょう・・と目を輝かす。ないとは言えぬ、とわたしも思う。
そもそも各地にある三年坂の名の由来は、必ず寺や墓地にとりかこまれた静寂な場所で、ソコで躓くと三年の内に死ぬ。死なないためには三度土を舐めよという俗信による。不吉な俗信のせいで、地蔵坂、三念坂の別名も多い。とにかく、これは危険な俗信である。鳥の糞も含んだ破傷風菌にまみれた土を、三度もなめたらどうなることか。
堀部安兵衛も先を急ぐあまり、転んだかもしれない。しかし土は舐めなかっただろう。ソレでも村上三兄弟をバッタバッタとやっつけるほど元気だったのである。そのことを尋ね様にも坂名に起因した、当時はあった西照院も成願院も今は無い。
明森まつり
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