| 「新宿の坂道紀行 逢坂
「美男坂」の別名を持つこの坂は、名前の面白さから坂に親しみはじめた私にとってはことのほか興味をそそる坂であった。「美男に逢える」のではないかという期待ももちろんだが、実際に行って坂下に佇むと誰しもが古代のロマンに夢をはせる。
この坂には悲話がある。昔武蔵守として都より赴任した小野美佐吉が「さねかずら」という美女とここで出逢い恋に落ちた。が、やがて帰還の命令を受けて別れ別れになってしまった。募る想いに病となり亡くなってしまったのだが、ある夜彼女の夢枕に立ち、この坂で再会を果たしたというものである。「さねかずら」が別名美男かずらとも呼ばれることから美男坂の名が生まれたということらしい。
坂の裾にはまるで置き忘れられたように小さな祠があり、大きな柳がかぶさるように枝を垂れている。そのむこうに緩く弧を描きながら坂が上っていく様はなかなか日本的風情がある。が、しばらく上り日仏学院が視界に入ると、広い中庭の空間が開け一瞬別世界に入り込んだような気分になる。「坂の下からだと、どこに建物があるのか分からないらしく、ゲストでやってくるフランス人や、学校に初めてやってくる日本人は、坂をちょっと上ってぱっと現れる学校をみて驚くそうです。」と日仏学院のシリルさんがお話してくださった。
坂はかなり急で、上から見ていると、ゆらゆら、ひょこひょことひとの頭が見えてきて、全体の姿が現れる。先日訪れた時は上ってくる人の頭が左右に大きく動いて不思議に思っていたら、フランス人の青年と父親らしき二人が自転車で現れた。青年の方は坂の最後を踏ん張って上り切ったが、父親の方はあとちょっとという所で自転車を降りて、照れくさそうに私の前を通り過ぎて行った。無言ながら目を交わし、ふと心が温まった。
坂下の古川自転車のご主人のお話によると、小学校の頃は仲間とこの坂を自転車で上る競争をしたとか。歳を重ねて上りきった時には晴れがましく思えたとのことだ。
坂上には最高裁判所長官公邸があり、重厚な石垣塀が続いて、ここが閑静な武家屋敷地跡であったことを忍ばせている。このあたりの瀟洒なマンションにはフランスの方達が多く住んでいるようだ。古のたたずまいを残しながらも現代ではすてきなフランス人と出逢える「逢坂」である。
井出のり子
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